人間の魂


人間の誕生

 あの世の存在、Mは、初めに人間の成り立ちについて語りました。

 地球と宇宙、その宇宙とは、さまざまな天体が存在している物質としての宇宙であると同時に、それらのものを創り出している、途方もなく巨大な精神であるそうです。その途方もなく巨大な精神を、私達人間は「神」と呼んでいます。

 宇宙はひとつの大きな生き物のように、変化を繰り返しています。天体には寿命があり、老いた星はやがて消滅し、新しい星が生まれます。星の消滅と誕生といったような、大きな変化が起きるとき、そういう変化を起こすとき、宇宙という巨大な精神の内部には、とてつもないエネルギーが巻き起こるそうです。そのエネルギーのうねりのさなか、神なるエネルギーから飛び散った飛沫のようなものが、人間の魂だとMは言いました。水のしぶきのように、巨大なエネルギーから無数の小さな小さなかけらが飛散し、そのひとつひとつが意思を持った独立した存在になったのです。

 人間の魂とは、「神」から飛び散った、神のかけら、神の分身のようなものだそうです。

 宇宙という巨大な精神体は、完全なるバランスを保った存在だとMは言いました。それならその分身である人間の魂も、完全にバランスのとれた存在であるはず……、と思いきや、残念ながらそうではありませんでした。人間社会を、自分自身を眺めてみれば、人というものがいかにバランスの悪い、不安定きわまりない存在であるかが痛感されます。

 完全なるバランスを会得しなければ、宇宙という、神というものの中に存在し続けることはできません。そこで神なる宇宙は、人間の魂にバランスを学ばせるために、地球という星を創りました。地球は精巧で微妙なバランスのうえに成り立っています。バランスが崩れれば、地球というシステムは機能しなくなり、あらゆる方面に狂いが生じます。そうした地球に身を置き、肉体を持って生きることで、宇宙のバランスを学ぶこと、それが人間が生きることの、究極の目的だとMは語りました。


人生を何度も繰り返す

 私達があの世と呼んでいる、精神の宇宙には、おびただしい数の人間の魂が存在します。それらの魂は、ある期間、地球上に肉体を持って生き、自然のシステムに従って肉体が限界を迎えると、死んだ体から離れて、宇宙に戻ります。

 私達は地球上で人生をおくるあいだに、多くのことを経験し、さまざまなものを心に刻みつけます。刻みつけられたもののうちいくつかは、心の糧となり、それらを通して私達は、人として生きるうえで最も大切にしなければならないものを発見します。そうした発見を積み重ねることが、生きる意味であり、人生の目的です。

 人が「神」と呼んでいる精神の宇宙は、完全なるバランスのうえに成り立っています。そのバランスを自分のものにし、精神の宇宙のなかに安定した居場所を得るまでに、人は多くの葛藤と発見を繰り返さなければなりません。

 肉体を持って地球上で生きる、一度の人生で、”神のバランス”を会得するのは、ほとんど不可能と言っていいでしょう。こうして人は、何度も人生を繰り返します。地球上で人生をおくり、肉体が死ぬと宇宙に戻り、ある期間を経て、再び地球に生まれ出る。やや乱暴な言い方になりますが、人は”あの世”と”この世”を行ったり来たりしているようなものです。

 地球は人間の魂の学びの場、学校のようなものだとMは言いました。人間の魂にとって、神なる宇宙は、本来居るべき場所、たとえば実家のようなものであり、地上での人生は、寄宿舎付きの学校に行くようなものだそうです。

 私達は、誕生から自分のすべてが始まり、死によって自分のすべてが終わると思っていますが、誕生する前にも自分は居て、「さあ、行ってらっしゃい」と送り出され、死ぬと、「お帰りなさい」と本来自分が居るべき世界に迎え入れられるのです。

 

私の体験

 人は何度も生まれ変わるという考えを、全く受けつけない人も多いと思います。輪廻転生は迷信で、人間は死んだら”無”になる、自分は消滅すると考えていらっしゃる人のほうが多いかもしれません。自分が消えてしまう……、なんと恐ろしいことでしょう。

 生まれ変わるという考えが受け入れられないのは、その証拠がないからです。論より証拠。Aさんは数百年前、現在とは異なる国で、異なる性で、別の名前で、人生をおくっていましたという確かな証拠があれば、人は何度も生まれ変わるという考えは、社会の常識になります。

 そもそも魂というものが存在するのか、という疑問を抱いている人も多いでしょう。心の存在を否定する人はいませんが、魂の存在は認めない。魂という言葉そのものに、非科学的なうさん臭さを感じて、拒否感情が生まれるのかもしれません。

 心とは、肉体とは別個に在るのではなく、脳が生み出すものと考えている人も少なくないでしょう。脳細胞の働きによって、さまざまな思考や感情が生まれ、つまり心というものが形成される。死を迎え、脳が活動を停止すれば、心は消滅する。心が消え失せれば、自分というものは無くなってしまいます。

 この考えは、心というものの存在を証明するために、編み出されたものでしょう。心は脳細胞が生み出したもの。脳という肉体の一部が、心というものの存在の根拠になっているわけです。

 肉体とは別に、魂というものが在り、魂は肉体が滅んでも永遠に存在するという考えを、証明する手だてはありません。物質の宇宙とは別に、精神のみの宇宙があり、そこには人間の魂や、私の友人に現れたMのような精神体が存在しているという証拠を見せることはできません。

 魂や精神の宇宙は、根拠をあげて証明するという思考法の外に存在するものです。それは自分の内面で”感じ取る”、感覚のなかで”確かめる”ものです。

 ここで、私の体験をふたつ、お話ししましょう。                        私は16歳のとき、それより4年前に他界した父の魂に遭遇しました。遭遇とはやや大げさな言い方ではありますが、まさしくそんな感じに、父の魂はある日唐突に、私の部屋に現れました。

 試験勉強に疲れた私は、机に背を向け、部屋の中を見るともなしに眺めていました。整理ダンスにベッドにカーペット……、見慣れた光景に重なって、そのときふいに一本の線が空間に現れたのです。その線は定規で引いたような正確さで、水平にどこまでも伸びていました。線の真ん中には、何かのグラフのように、小さく区切り目がついていました。

 その線が空中に現れたとき、私は理由はわかりませんが何の疑いもなく、線が父の魂だと思いました。正確に言うと、「魂」という言葉が頭に浮かんだのではなく、私はその線を、父の「実体」とか「核」とか、そんなふうに感じたのです。

 線の真ん中にある区切り目は、生と死の境目です。区切り目の左側は生の領域で、右側は死の領域です。そして父は左側の生の領域を生き、生死の境目を越えて、死の領域へ入ってからも、生きているときと同じように、力強く存在し続けているのです。力強くという印象を受けたのは、真横に伸びるその線が、弱々しいものではなく、凛とした強さを持っているように感じたからです。

 これらのことを、空中に浮かんだ一本の線からどうして読み取れたのか、それは今もってわかりません。心に目があるとしたら、私はそういう心の目、感性の目で、眼前に起きている感性の世界の出来事を、眺めていただけという気もします。たとえば地図を見ながら地理を読み取っていくように、ごく自然に、私は宙に浮かんだ線から、いろいろなものを読み取っていたのです。

 ふたつ目の体験は、前世に関するものです。                          20代の後半、私はエジプトを旅しました。博物館や有名な観光地を巡るツアーで、とても刺激的な、楽しい旅でした。                                       旅の目的のひとつは、イクナートンというファラオの像を見ることでした。イクナートンは、あのツタンカーメンの父で、宗教改革を起こした王です。旅行前、古代エジプト史の本を読んで、私はイクナートンに強い興味を持ったのです。

 カイロ博物館で、イクナートンの像や、イクナートンがファラオであったアマルナ時代の美術品を見、私の好奇心はだいぶ満たされました。そして旅の終盤、そろそろエジプト美術にも飽きてきたかという頃、私はルクソールの博物館で、不思議な思いに囚われました。

 一階の展示室をざっと見て、二階への階段を上がったとっつきに、高さ3メートルはあろうかという、巨大なイクナートンの胸像がありました。そこにそんな像があるとは知らずにいた私は、突然現れたこのファラオの巨大な顔に、目が釘付けになりました。その像は、カイロ博物館に展示されていた像より、美しい顔をしていました。その像を見つめていたときに、私はなんとも不可解な思いに囚われたのです。

 石像の奥に、温かい肌を持った、生身の男性がいました。小麦色の逞しい裸の胸は、私には馴染み深いものでした。私はその肌の温もりと匂いを、よく知っていました。そしてその人柄の優しさも……。 「やっと会えた」                                      言葉が、胸の奥のほうから、泡のように浮かび上がってきました。ここで説明しなければならないのですが、私の意識、顕在意識と言えばいいのでしょうか、ともかく通常の私は、イクナートンの像を見て、懐かしさがこみ上げたり、「やっと会えた」と心の中でつぶやいたりしたのではないのです。   「やっと会えた」という言葉は、あたかも私の内部に、私のあずかり知らないもう一人の自分がいて、そのもう一人の自分がつぶやいた言葉、そういう感じのものだったのです。

 それはほんの数秒の出来事だったように思います。私の心は数秒間、石像の奥に引き込まれ、それから現実に引き戻されました。現実感覚が戻った私の目には、イクナートンの像は、ただの石像にしか見えませんでした。

 あまりに短い間の出来事、一瞬心の中をかすめて過ぎた幻のような出来事だったので、私はこのことをあまり気に留めませんでした。あまりにも異常な出来事で、私の理性がこれを受け止めきれなかったのかもしれません。巨大な遺跡や暑熱の砂漠や、珍しいエジプト料理などに心を奪われ、この出来事の記憶は、心の片隅に追いやられてしまいました。

 日本に帰って数日たったある晩、またもや不可思議な思いが私を捉えました。湯船に浸かって、エジプトでの盛りだくさんの日々を、思い返していたときのことです。私の思考の流れとはまったく関係なく、不意に胸の中心あたりから言葉が響いたのです。             「私は、あそこに、いた」                               「私は、古代エジプトの時代に、生きていた」                       当然のことながら、私は仰天しました。何? 今のは何なんだ?             「私は、あそこに、いた」                                言葉はしつこく繰り返されました。

 古代エジプトに自分が生きていたなどということはありえないと思った私は、自分の正気を疑いました。自分は気が狂ったのかもしれないと思い、胸の中心から湧いてくる言葉を、懸命に否定しました。しかし何度否定しても、言葉は繰り返されるのです。まるで自分の中にもう一人、私の意識とはまったく関係のない自分がいて、その自分が頑なに主張しているかのようでした。

 この風変わりな自問自答を続けているうちに、私はしだいに、胸の奥から響く言葉を受け入れるようになりました。なぜ受け入れたのか理由はわかりませんが、自分は気が狂ったのではなく、この胸の奥から言い続ける何ものかは、真実を語っていると思ったのです。ルクソール博物館での不可思議な出来事も思い出されました。私はあの時、石像の奥に生身のイクナートンを、私がよく知っているイクナートンを感じました。                       私はあの時代に生きていたのだ。イクナートンというファラオの身近に、私はいたのだ。   私の理性は、そう納得したのです。

 前世を語るのは、難しいものです。「私は紀元前のエジプトで、ファラオに仕え、人生を送っていました」そう言葉にした途端、このことは漫画チックな、荒唐無稽な衣をまとってしまいます。前世を感じる人は稀にいて、ある人はカンボジアのアンコールワットに行った時、自分はかつてこの近くに住み、この場所を熟知していたと思ったそうですが、それを人に語ることはめったにありませんでした。私も笑いものになるのを恐れて、あの世の存在、Mに出会うまでは、この密かな発見を人に話しませんでした。

 Mにエジプトでの体験を語ったところ、Mは私が感じ取ったことは真実だと言い、加えて私は日本の平安時代に生きていたこともあると言いました。                   Mの説明によると、魂は自分の前世をすべて記憶しているそうです。しかし地球上での人生をおくるために、肉体と合体した瞬間、前世の記憶は消されます。それは地上での生を通して、魂が学びを進めるのに、前世の記憶が障害になるからです。

 Mは言いました。「あなたが前世で人を殺したとしましょう。殺人を犯した前世の記憶をくっきりと持ったまま、現世を生きたら、あなたは人を殺したことが現世の出来事であるかのように、なまなましい後悔に苛まれるでしょう。仮に前世で殺した相手が、現世であなたの身近にいる人だとしたら、その人とあなたとの関係は、初めから非常に歪んだものになります。過去の記憶をすべて消し、まっさらな状態で人生を始める必要があるのです。真っ白なキャンバスに新しい絵を描くように、過去に引きずられることなく、今の人生を築いていかなければなりません」

 Mが私の前世について、ほんの少しですが語ったのは、エジプトについては私自身が気がついたからであり、平安時代については、それを伝えることが、現在の私のプラスになると判断したからだそうです。                                    誕生の瞬間に前世の記憶が消されるのですから、前世について詳しく知るのは不可能ですし、その必要もないのです。

 私の体験を書いたのは、理性や知性で把握する世界とは別に、純粋な感性、直感でしか捉えられない世界があることを伝えたかったからです。                      現実世界に生きている私達にとって、直感の領域はほんの僅かなものではありますが、それは確かに存在します。私達人間は、物事を把握し、理解を深めるのに、理知の道と直感、感性の道という二種類のルートを、脳と心の中に備えているのです。